皆さん、「らしさ」とは何か、考えたことはあるでしょうか。「人間らしい生き方」とか、「男らしさ」なんて使い方をしますし、耳にすることも多い言葉なだけに、逆にそれについて考える機会はなかなかないはずです。今回は私なりの学生「らしさ」について話をさせて頂こうと思います。
私は現在卒業を控えている大学4年生です。このコロナ禍で、大学の後半2年間をほとんど家で過ごしました。友人と旅行にもほとんど行けず、さらにはサークルを早々に抜けてしまったこともあって、「合宿」なるものを一度も経験することなく卒業を迎える運びとなりました。
「大学生活は人生の夏休み」と称されることもありますが、私の大学生活は、さしずめ寝正月の冬休みといったところでしょう。
一般的に見て、これは大学生「らしい」生活といえるでしょうか。
そうではないようです。私の周囲の人びとは、「大変だね」とか、「災難だね」などと声をかけてきます。すでに大学を卒業していった諸先輩方から見れば、そのような感想になるのかもしれません。
私個人的には、そのような慰めを受けるのが大嫌いです。
というのは、実際のところ、私はこの大学生活を悪いとは思いません。ステイホームが叫ばれる中で、新しい趣味に出会うことができましたし、遠出できない分、地元の昔からの友人と再び親交を深めることができました。家でタスクをこなしていく感覚は、ニューノーマルな社会人生活の予行練習になっています。
これらは、この大学生「らしくない」生活の副産物であり、紛れもなくそこから得ることができた財産です。以前のような生活を羨んだり、現在の自分自身を憐れんでしまうことは、ここ2年で積み上げてきたことを間接的に否定してしまうことに繋がります。「こんなはずじゃあなかった」と、自らを悲劇のヒーローに仕立て上げることは簡単ですが、悲しいかな、それで現状は変わりません。
また、このような状況は何も私のみに起こったことではありません。コロナ直撃世代全員に起こったことです。つまり、私から横一線の人間を広く鑑みれば、この「大学生らしくない」生活こそ、私たちの一般的な「大学生らしさ」なのです。
考えてみれば、「らしさ」は時代によって移り行くものです。高度経済成長期には、学生運動が活発になり、それに参加したり、体制に反抗することが大学生らしいことであるとされた時代があれば、ディスコでひたすら踊って朝を明かすことが大学生らしいとされた時代もあったことでしょう。尤も、それすら星の数ほどいた学生の生活のほんの一部のものであって、それぞれに「らしさ」をもった生活があったに違いありません。
過去の幻影にとらわれることなく、今、ここの生活を受け入れることこそ、周囲が強要する「らしさ」に対抗し、私がこの時代で私「らしい」生活を送るために必要なことになるのではないかと思うのです。
何ができるのか、何をして楽しんで生きるか、思索の日々は続きますね。