久々の更新となりました。更新が滞る中、世界情勢は大きな変化を迎えました。コロナ禍で人との接触が著しく制限され、これまで普通だと思っていたことがいかに不安定な地盤の上に成り立っていたか、否が応にも自覚せざるを得ません。
私自身もそのような時勢の中で、大学の授業や就活等々、様々な場面で人と直接会ってコミュニケーションを取ることの大切さを痛感する毎日が続いております。
そんな中で、私自身日頃から古典に触れる機会が多いのですが、とても印象に残った文章があったので、メモがてら共有したいと思います。
■「中庸」第一章
「四書」の一つにも挙げられている「中庸」の中からの紹介です。
「中庸」と聞いて、字面だけを見るとぴんと来ないかもしれません。「凡庸」とか、「中間」のような…。あまりぱっとしないイメージを持たれる方もいらっしゃることと思います。
しかし、「中庸」とは決して悪いニュアンスの言葉ではありません。本文ではこれを「中」と「和」に分けて説明しています。
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆な節に中る、これを和と謂う。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。
喜怒哀楽などの感情が動き出していない、心の平静な状態のことを「中」という。感情が発露しても、それが皆節度に適っている状態のことを「和」という。こうした「中」は世界の大いなる根本となるものであり、「和」は世界で通じる道理の極致である。
昨今の事情から、画面越しのコミュニケーションが急速に拡大していますが、直接対面してのコミュニケーションに比べてなかなか不慣れな部分が多いですよね。何が慣れないかといえば、相手の感情が読み取り辛く、自分自身もどのようなテンションで相手に臨めばよいかが分からないというのがその一つとして挙げられるのではないでしょうか。
人と人が関わる以上、完全に無感情で事を成すというのは難しい。しかし、相手がどうであれ、自身の感情が揺れ動いた時、それがきちんと自分の手の届くところにあるのか、節度を持ったものであるのかを意識するだけで、心に余裕ができます。感情をコントロールするきっかけを得ると言い換えても良いかもしれません。
とは言え自分をいわば俯瞰してみるというのは、最初は意識しないとできるものではありません。コミュニケーションを取りながらとなるとさらに難しいでしょう。人と人との接触が制限されている今、普段の生活を送る中で頭の片隅に「中庸」の考え方を置いて自分自身の感情の動きを顧みてみるのはいかがでしょうか。
私は手始めに、トラウマの映画である「世界の中心で愛を叫ぶ」を見て感情のコントロールを練習したいと思います。
おわり。