ブログ開設にあたって

出発点として

『つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 』

 これは、かの「徒然草」の冒頭の一節である。一体これまでに、どれほどの書き手が書き出しにこの文を引用してきたのであろうか。一つの文学作品の書き出しとしては、最も有名なもののひとつであり、少なくとも何か物を書いてやろうという気概のある人は皆聞いたことがあるものであろう。非常に有名なこの文を、このブログの出発点に据えることは、展開としては非常にありふれているものだと思う。しかし書く。それは、このブログの在り方をよく表しているからだ。

 2020年現在、私は大学にて教育、特に国語に関わる分野を主に学んでいる。もともと国語が好きであったというのもあるが、「人を教え育てる」という過程の中にどのような理論が存在し、どのような方法をもってそれを実現していくのかに興味があったからだ。 教育学、言語学、心理学、 古事記から夏目漱石、果てはアニメやラノベまで、研究の最先端に触れることが出来る今の環境は、本当に素晴らしく、恵まれている。

画像はイメージである。

 繰り返すが、私は現在一介の学生の身である。特定の分野の専門家でもなければ研究者でもない。しかし、見方を変えれば、そのような自由な身だからこそ、あらゆる事柄について―何のしがらみもなく―自由に書き連ねることが出来る。

 話を戻そう。このブログはそのような中で得たもの、考えたもの、日常で共有したいと思ったものを「つれづれなるままに」書き連ねる場として存在するものだ。行動を起こさなければ私の中のみで完結してしまうようなものも、書くことでカタチとなる。カタチとなったものは不特定多数の人物と共有できる。その面でこの場は、私個人の、ささやかな、もとい微々たる「教育」の実践の場と言えなくもないだろう。もっとも、これは身勝手な自己満足を満たすための解釈だと言われればその通りであるが…。

 さて、私は今まさにこの投稿を公開しようとしているわけだが、誰が受け取るか分からない、誰も見ないかもしれないといった点で、手紙を瓶に詰めて大海原に流す光景と似ているなあと思う。インターネットという広大な電脳世界を漂うこの投稿が、誰かに拾い上げられることを願って、また、数年後の自分がこの投稿を見て恥ずかしさのあまり「ものぐるほし」い気持ちにならないことを願って、このブログの出発点とする。

今回はここまで。

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